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みくまの散歩

『い』の池       『の』の池

@「い」の池・「の」の池

当熊野神社の境内には、古い歴史と伝説に包まれた「い」の池、「の」の池があります。残念ながら三番目の「ち」の池は、今は埋められてしまって大曽根第二公園となっていますが、古くはこの三つの池を合わせて『いのち』の池と呼んでいました。当神社の前にある池が『い』の池と呼ばれるもので、これはその名のように平仮名の「い」の字の形をしています。古くから、この池を浚うと雨が降ると伝えられ、当博物館蔵の十二の龍頭を使っての「雨乞神事」もこの『い』の池で行われました。また、『い』の池には片目の鯉の伝説があります。遠い昔、熊野神社の権現さまがこの地の悪者を退治したときに、弓矢で片目を射られてしまいました。その時に、『い』の池に棲む鯉がその美しい目を権現さまのために差し出したといいます。さて、次に『の』の池ですが、これは本殿の裏山にあります。その昔、当社が落雷で出火した折、『の』の池の水によって御神体を守ったといいます。また、正月の筒粥神事はこの池の水を使って行います。

A残っている力石

かつて神社の境内は、若者にとって遊びの場であるのと同時に、修練の場でもありました。力自慢の若者達には、祭の日に行われる相撲大会で優勝することが最高の名誉であったことでしょう。また、もっと端的に重い石を持ち上げることが出来るかどうかで力の優劣を決めることも行われました。その石が力石・さし石で、今も当社の『い』の池前に「四拾五貫目 樽村清兵衛・常五郎」などと刻まれた力石がいくつか残っている。ちなみに、四拾五貫は約168キロである。

B庚申塔

当社の境内には「正徳四年」(1714)と刻銘された庚申塔が一基、今も残っています。もともと庚申待は、中国の道教に由来する禁忌習俗で、我が国には平安時代に伝わり江戸時代になって民間に流行したといいます。六十日毎に巡ってくる庚申の日の夜、眠っている人の体の中から三尸の虫が脱け出て天に昇り、その人の罪を天帝に報告するという伝説から、人々はこの日一晩は仲間同士で集まって世間話をしながら寝ないで過ごしたという。その仲間組織のことを「庚申講」と呼び、また講と関連して「庚申待供養塔」すなわち、「庚申塔」と称される石塔が建てられるようになったと言われます

C石燈篭

文政十二年(1829)に江戸神田の町名主斎藤幸雄・幸孝・幸成の父子三代の手によって作られた地誌に『江戸名所図絵』があります。この本の巻二に『師岡熊野権現宮』と題して当神社のことが絵入りで紹介されており、その絵図を良く見ると、弁天様の祀られている「い」の池の岸辺に燈篭が立っているのを見ることが出来ます。そして、その燈篭は現在でも『江戸名所図絵』の時代のままに、「い」の池の岸辺に建っています。燈篭には「寛政癸丑十二月吉日 世話人庄兵衛 新助」などの文字が刻まれており、寛政五年(1793)に奉納されたものであることが分かります。

D勅額

当神社の石段前には、石の鳥居があります。これは江戸時代の寛政十年(1798)に、当時の氏子の人々によって奉納されたものですが、この石鳥居には「関東随一大霊験所熊埜宮」と記された勅額が掲げられています。勅額とは、天皇が自ら書かれた額のことをいいますが、社伝によればこの額を書かれたのは、第58代光孝天皇であり、平安時代の初め、当神社がこの師岡の地に天皇の勅願所として御造営されたときに、光孝天皇がその完成を祈って、この勅額を下賜されたとあります。なお残念ながらその由緒ある勅額は、関東大震災の折に割れてしまい、今掲げられているものは、その写しとなっているものです。

E御社殿

社伝によれば、師岡の地に当神社の社殿が最初に建立されたのは仁和元年(885)のことでした。その建立は光孝天皇の勅命によるもので、以後当社は四代にわたる天皇の勅願所となりました。ところで現在の本殿は、江戸時代中期の正徳三年(1713)に建てられたもので、戦禍を免れ今日に及んでいます。この本殿の造りは「流造(ながれづくり)」と呼ばれ向拝(廂)が設けられている所に特徴があります。また、本殿とつながるかたちでその前にある建物が拝殿で、こちらは明治19年9月に再建されています。

F弁天様

『江戸名所図絵』(1829成立)にも描かれているように、「い」の池の岸辺には、今も、弁天様の祠がひっそりと祀られています。夷(えびす)や大黒の神様などと共に七福神に数えられている弁天様(唯一の女神様)は音楽や弁説(知恵)を司る神様として信仰されていますが、もともとはインド神話に登場する河川の神でした。従って当神社の弁天様のように、水辺に多く祀られているのは、弁天様のもともとの水神としての性格に由来しているといってよいでしょう。毎年八月一日、当神社ではこの弁天様をお祀りする神事が行われています。

G稲荷社

当神社には、神明社・日枝社・稲荷社・天満社をはじめとして多くの境内末社が鎮座しています。それらの境内末社のうち江戸時代中期より、神社石段の右側に鎮座している稲荷社をとりあげてみます。稲荷社の御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で五穀豊穣・商売繁盛の神様として広く信仰されています。この末社のお祭は、毎年二月の最初の午の日に行われますが、それは全国の稲荷社の総本社である京都伏見稲荷大社の稲荷大神が和銅四年(711)二月七日初午の日に、稲荷三ケ峰に鎮座されたという伝えに由来しています。


H神社と地名

師岡町周辺の町名の由来を尋ねてみると、当神社の祭りと関係のある地名であることがわかります。例えば、獅子ヶ谷(ししがや)というのは、祭りの際に獅子舞を司っていたことから、また、樽(たる)というのは同じく祭りの時の神酒を献上する地区であったことから、そして、大口(おおぐち)は勅使が大口袴を着替えた所から地名となったものです。この他にも、駒岡(こまおか)は神馬を奉納する地区であったことから、そして大豆戸(まめど)は、神様のお供えとなる豆を神社に奉納する地区であったことに由来する地名です。このように、神社の祭りを中心として地域の役割分担が決められていたことを、町名の由来を尋ねることによって理解することが出来ます。神社の祭りというものは、昔も今も、氏子区域の人々の相互連携の場ととして、受け継がれてきたということでもあります。


I注連柱(しめばしら)

「関東随一大霊験所熊野宮」と記された勅額のある石鳥居をくぐると、もう一つ石段前には、注連縄(しめなわ)の張られた石柱があります。この「注連柱」と呼ばれる石柱が当神社に奉納されたのは、大正八年九月のこと。「柱銘」によると、「当所鈴木伊三郎・東京芝区二本榎 川合梅子奉納」とあり、江戸時代の寛政十年に奉納された石鳥居より、新しい石造建造物ということになります。しかし、注連柱は鳥居の前身に当たるもので、歴史的にはより鳥居の原始の姿に近いものとされています。


J神明社

本殿左脇・奥に入ると「の」の池の左側に神殿があります。この社は、皇祖天照皇大神を奉斎する神明社です。当社の御祭神でもある伊邪那美命から現出された三貴子(みはしらうずのみこ)、他に須佐之男命・月読命の御一神であり、太陽を象徴する最高貴神の女神として伊勢の神宮におまつりされ御分霊は全国津々浦々に及んでいます。俗に「大神宮さま」とも呼ばれ全国の家庭の神棚にまつられる神様として多くの方に親しまれています。江戸時代の地誌である新編武蔵国風土記稿にも記載が見え、今も多くの方が当社参拝の折に足を運ばれ敬虔なる祈りを捧げられている姿が見られます。

 師岡熊野神社社務務所  〒222-0002  神奈川県横浜市港北区師岡町1137 TEL:045-531-0150  FAX:045-541-9356